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制度

監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し日本一になった。翌2000年もリーグ優勝してV2を成し遂げるも日本シリーズで敗退するが、2003年にも再び日本一に輝く(2度の日本一になった年の日本シリーズでの対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。2000年の日本シリーズは長嶋茂雄が監督を務める巨人との「ON監督対決」として注目された(この年の福岡ドームでの日本シリーズが変則日程で行なわれたが、3年前に福岡ドームを先約していた日本脳神経外科学会の日程を優先させたためである。上述のように、1997年までのホークスはBクラスの常連で、その当時はホークスの躍進が予想できず、学会の予約を承諾してしまったためだと言われている)。 2002年のドラフトで、スキャンダルが発覚して横浜ベイスターズに指名回避された多田野数人を事実を知った上で獲得しようとした。球団社長・高塚猛もGOサインを出したがオーナー・中内正の強い反対にあって実現はしなかった。石垣ホテル・石垣島宿泊 2004年6月7日には日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となった。 なお、指揮を取るホークスは2003年から3年連続レギュラーシーズン1位となったが、パ・リーグにおけるプレーオフ制度導入となった2004年、2005年と2年連続でプレーオフセカンドステージで最終戦まで行きながらも2004年は西武ライオンズに、2005年は千葉ロッテマリーンズにリーグ優勝を譲っている。高速バス 2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック世界大会」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、選手・監督として名実共に「世界の王」となった。この偉業が讃えられ、2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞した。12月20日、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞した。また、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。なお、WBC期間中のオープン戦の監督代行は、チーフ兼内野守備走塁コーチ・森脇浩司が務めた。 2006年7月5日の西武戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)後に記者会見を開き、胃に腫瘍ができていることを発表。翌日より胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れ休養に入った。監督代行はWBC開催時同様、森脇浩司コーチが務めた。術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。8月2日に退院・記者会見。ファンを大切にする王らしく「みなさんの激励に支えられて生還できた」と喜びを語った。なお、術後の病理診断結果は公表されていない。 2006年9月29日、福岡ドームで行われたホークス2006年最終戦セレモニーに出席し、85日ぶりに公式の姿を現した。湘南 不動産 2007年春の宮崎キャンプから監督業に復帰した。2007年シーズンは3位で、クライマックスシリーズでも第1ステージで敗退。試合終了後、選手達へ「来季はラストシーズンのつもりでいる」と、成績次第で2008年シーズン限りの退任を示唆したことを明らかにした。 2008年・7月1日?3日開催のセ・リーグ公式戦「巨人-ヤクルト」は永久欠番シリーズで「王貞治シリーズ」となっている。永久欠番シリーズとして開催されたものの「当事者は他球団のユニフォームを着て指揮」している唯一の監督となった。この日程はトレードマークである一本足打法が誕生した日(7 月1日)に因んでいる。 同年7月8日の西武ドームでの埼玉西武ライオンズとの試合で、西武の細川亨捕手のブロックが走塁妨害だとして、5分近くにわたる審判団への抗議を行い、もし遅延行為と認められた場合は現役・監督時代通じて初の退場処分も心配されたが、杞憂に終わった。王は「あんなラフプレーはいかん。世界中にあの映像を流してもいいくらいだ」と激怒した。前年にも西武戦で多村仁外野手が同じく本塁上のブロックを掻い潜る際に負傷しているだけに、警戒感が高まっていたといわれる。札幌 ビジネスホテル 9月23日、試合終了後に記者会見を開き、体力的な問題を主な理由にシーズン終了で監督職を退くことを表明した。「50年、いい野球人生でした。50年間ひとつの道にこれだけどっぷりつかって、心をときめかせて68歳までやれたことは、とても幸せでした」と述べた[7]。翌日のヤフードームでの本拠地最終戦では、オリックスに敗れて11年ぶりのBクラスが決定したが、試合後のセレモニーでは選手たちから胴上げされた。 10月7日、シーズン最終戦となるクリネックススタジアム宮城での楽天戦は負けた方が最下位となる直接対決でもあったが、延長12回の末にサヨナラ負けを喫した。試合後には敵地にも拘らず王の引退セレモニーが行われ、現役時代からライバルであった楽天・野村監督から花束の贈呈を受けた。試合後には「勝負師としては最後を飾れず残念」「野球好きな僕にふさわしく、12回もやれた。その点では良かった」と語った。監督としての通算記録は、2507試合で1315勝(プロ歴代8位)1118敗74分だった。 監督退任後は、引き続きソフトバンク球団最高顧問となった。また、12月7日、読売巨人軍OB会の会長に、長嶋茂雄の後任として選出された。 エピソード この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2008年8月に貼付されました。 756号本塁打北海道旅行 756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られる手はずとなっていたが、3日間本塁打が出なかったため製作していた花屋は45万円分のカーネーションを無駄にすることになった(ボランティア製作だったようである)。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。 この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあった。 日本テレビ放送網は当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。というのも、当時の中継は19:30からの放映で、記録を決めた19:10の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!!」で繰り返し流された。 その756号を打たれたヤクルト・鈴木康二朗は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続けた(現在は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍している)。また、鈴木はプロ野球機構から新記録を打たれた記念としてサイパン旅行を打診されたが、プロの意地としてこれを断っている。 世界記録達成により、達成した後楽園球場では外野の落下地点に記念のモニュメントが設置された(現在は東京ドーム内の野球体育博物館に飾られている)。 その他本塁打沖縄旅行 公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。 通算700号を打った川崎球場では、ホームチームでない選手の記録にも関わらずスタンドインした付近のフェンスに記念プレートが設置された。 通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで"やしろ"となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。 また公式戦最後となった通算868号の本塁打を打ったバットは、現在フリーアナウンサーの徳光和夫が所有しており、徳光が『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演した際に鑑定のため持ち込んだことがある。王は前述の八代のエピソードにもあるように、本塁打を打ったバットを知人にプレゼントすることが多かったため、当初徳光は自分の持つバットが本当に868号を打ったバットとは思わず、自宅で青竹踏み代わりに使っていたという。